この物語が問うもの
「見えない恐怖」を前にしたとき、
私たちは何を選択するのか。
原因不明の事象により、「自分が未知の病の保菌者かもしれない」という疑心暗鬼が蔓延した世界。人々は誰に強制されることもなく、自ら新しい命を産むことを諦め、静かな絶滅へと歩み始めます。確かなものが何一つない極限状況の中で、人々がすがりつく「正義」や「希望」とは一体何なのか。本作は、正体不明の脅威に翻弄される社会を通して、不確実な世界を生きる私たちの倫理を静かに問いかけるサスペンスです。
あらすじ
その病は存在するのか―
ある年。世界中の産科から、説明のつかない死が報告され始める。健康だったはずの胎児が、ある特有の心拍の波形を最後に、ことごとく命を落としていく。地域も、人種も、暮らしぶりも問わない。回復した例は、ただの一つもない。
だが、どれほど検査を重ねても、病原体は見つからない。ウイルスも、細菌も、毒物も——「原因」だけが、どこにも存在しないのだ。
国立感染症研究所の分子生物学者・久坂蒼太は、来る日も来る日も血液を、組織を、遺伝子を調べ尽くす。彼には、証明しなければならない理由があった。十歳のとき、名もない病で喪った妹。あのとき「わからない」まま見送るしかなかった無力さが、彼を「証明できれば救える」という信念に縛りつけている。
一方、心理学者である妻・美怜は、まったく逆の場所に立っている。彼女が見つめるのは病原体ではなく、恐怖に呑まれていく人の心だ。原因が見えないとき、人は見えない敵を発明する。妊婦を遠ざけ、隣人を疑い、声をひそめて誰かを責め立てる。分からなさは、どんなウイルスよりも速く伝染していく。
いないことは……どれだけ調べても、証明できない。 ——本文より
登場人物
確かさを、求める人々
久坂 蒼太
分子生物学者
「証明」を「愛」と同じ重さで信じる男。謎を解けば妻を救えると信じて、自らもまた、確かさの渦へ沈んでいく。
久坂 美怜
心理学者
人々のパニックを冷徹に観察しながら、その心理を理解することが、恐怖から自分を守ってはくれないと知っていく。
凪
蒼太の妹
二十三年前、十歳で逝った少女。最期に遺したひとことが、いまも兄を縛りつけている。
高村 静江
山村の古老
答えのない暮らしを、とうに受け入れていた人。彼女の谷にだけ、なぜか病は訪れない。