PROJECT NOVA 文庫
『千の栞』表紙

NOVA-002 / 現代ヒューマンドラマ

千の栞

姉が遺したのは、アニメと小説の感想ノート一冊だった。
灰色だった街が、少しずつ色を持ちはじめる。

現代ヒューマンドラマ 全一巻 既刊

この物語が問うもの

好きなものに費やした時間は、
現実からの逃避だったのか。

毎日がただの「事実の連続」として過ぎていくとき、世界はひどく退屈で、低画質に見えます。感情の揺れも、夕暮れの美しさも、ただのノイズとして通り過ぎていく。アニメや小説に没頭するのは、そんな無機質で息苦しい現実からの「逃避」にすぎない——。かつての主人公・湊も、そうやって物語を冷笑していました。本作が描くのは、その逆の順序です。姉が遺したノートの言葉を借りて街を見はじめた弟の視界で、これまで一色だった風景が分かれていく。増えたのは、街のほうではありません。

あらすじ

灰色の街に、色が戻るまで

姉が遺したのは、アニメと小説の感想を書いたノート一冊だった。

篠崎湊、二十三歳。社会人一年目の職場では、加点が数えられることはない。ミスだけが記録され、何も起こらなかった日が最良の日とされる。定時を過ぎて会社を出て、同じ電車に乗り、同じ道を歩いて帰る。通勤路にどんな木が植わっているのかを、湊は一度も考えたことがなかった。世界はそういうものだと思っていた。

三つ上の姉・栞が事故で亡くなって、数ヶ月が経っていた。生前の栞は、観たアニメの話を食卓で熱心に語る人だった。湊はいつも「で、それが何の役に立つの」と返していた。姉は怒らなかった。ただ、少し困った顔で笑って、話を終わりにした。その顔を、湊は何度も思い出すようになる。

姉の部屋から出てきたのが、そのノートだった。表紙には「視聴記録&観察日記」と手書きで題が入っていて、&のところだけ二度書き直した跡がある。中身は、観た作品の記録と、そこで手に入れた言葉を使って現実を眺めた日記が、交互に綴られていた。喫茶店のマスターの沈黙について。会社帰りの人々の歩き方について。姉は、物語から持ち帰った言葉で、日常のほうを見ていた。

湊は、ノートが指定した作品を一つずつ観はじめる。理由は単純だった。姉と同じものを見れば、姉が見ていた景色に届くかもしれない。義務のような鑑賞が、毎晩数時間を持っていく。生産性はゼロだ。それでも、観終えた翌朝の通勤路が、前の日と同じには見えなくなっていく。

一色だった風景が分かれていく。バス停で誰かを待つ人にも、苛立ってばかりの先輩にも、それぞれの事情の続きがあると気づく。落ち込んだ後輩に、湊は姉の言葉を借りて声をかけてみる。うまくいくこともあれば、的外れなこともある。姉の親友だった灯と会うたび、湊はまだ訊けていないことがあるのを思い出す。姉は自分のことを何か言っていただろうか。たったそれだけの一言が、どうしても口から出てこない。

そして、湊はゆっくりと気づいていく。いま自分が世界を見ている目は、姉のものだ。姉の言葉で、姉の順番で、姉が指した方向を見ている。借りたものは、いつか返さなければならない。

物語に費やしてきた時間は、現実からの逃避だったのか。それとも、現実をより深く愛するための準備だったのか。

姉が見ていた景色に、弟は自分の目で辿り着けるだろうか。

誰かの背景で、自分の主役。 ——栞のノートより

登場人物

言葉を遺した人と、借りた人

篠崎 湊

社会人一年目

姉の話を「で、それが何の役に立つの」と切り捨てていた弟。ノートを追ううちに、見えるものの数が増えていく。

篠崎 栞

湊の姉

観た作品の記録と、そこで得た言葉で日常を眺めた日記を、一冊のノートに残した人。もう、この世界にいない。

栞の親友

栞と同い年。湊にとっては、姉のことを知っている数少ない相手。まだ、訊けていないことがある。

マスター

喫茶「サナトリウム」店主

寡黙で、注文以外はほとんど喋らない。カウンターの端に活けた一輪の花が、季節ごとに変わる。

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全一巻・Kindle ストアにて。

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